たのしかったしゅうしょくかつどう
就活おわりました。
思ったこと、あったこと、いろいろ。
~概略~
技術系総合職と事務系総合職、それぞれ数社ずつ受けました。
”本当に行きたいところ”、だけを受けた。これが後で色々詰みを生む。
前者は石油開発系が主で、後者はビルマネジメントやデベロッパーが主。合わせて5~10社、とだけ
結局決まったのは前者のうちのどれか。
勝敗で言うと、エントリした企業(=ES出した企業)のうち、それぞれのプロセスの通過率が
ES=約75%
集団面接orGD(行わないとこ含む)=約50%
一次面接=約13%
内定=(1社)
一次面接に勝率ヤバい。連敗街道。
次に、まず全部落ちたビル関係企業
周りの学生の”デキる感”がヤバい。口のうまさとか、表情とか。そのあと技術系受けるとホント笑っちゃうよ。とりあえずどもりを直して来いよって人すら選考生き残ってるんだもの。
やっぱり学部4年生が多いし、フレッシュさがすごい。”日本の学生は消極的ー”っていうあれはなんだったんだ。
けど、みんな自己アピールはうまいけどその企業とか業界の興味すら、ましてや知識もない人がかなり多いことに驚いた。つまり、”有名だから受けた”以上、みたいな
俺は選考ほとんど早期に落ちたからあれだけど、これでグル面とか通ると思うとすごいね、口のうまさって重要。
なにが言いたいかというと所詮は就活なんて
個人の能力 > やる気
なんだと思う。
冷静に考えてみりゃ、そりゃそうだよな(笑)と思うけど。あんまり熱意とかを抱きすぎても落ちた時のダメージが大きいから気を付けるべきだなんて始まる前には想像もつかなかった。
ビルマネジメントとか都市開発はどうしても人気業界だし、そういう“とにかく有名企業!”みたいなのが多いのは分かるけど、自分の能力が及ばないのはわかるけど、やっぱり心折れる。
次に技術系(石油とか)
あんまり言うことないけど。
やっぱり面接で研究のこととか聞かれることが多かった。けどそんな詳しくは聞かれない。アブストレベルの内容で大丈夫だった。
“人となり”っていう側面は研究のことに対して、あからさまにバイトとかのことを質問して補填してた。かなり、わかりやすく。
で、最後にやっておけばよかったことと、やっておいてよかったこと
①やっておけばよかったこと
・合同説明会に参加する(仕事なんてつまんないものだから、向こうからは寄ってこない)
・証明写真を撮っておく(キレイなデータがもらえる。)
・友達をたくさん持つ(情報がないのが一番痛い。都内私大生の情報量ヤバい)
・ネクタイと靴を多めに持つ(気分転換は超重要)
・研究(精神的につらい)
②やっておいてよかったこと
・アルバイト、特に接客業(月並みだけど、やっぱり接客業の話はどこでもウケる)
・学問的趣味(僕は日本史と地学。これも結構ウケる)
・他業界の就活的知識(“世の中”の一片を理解できる)
とにもかくにも、終わったものは終わったので。
とにかく穏やかに生きたい。
近況報告
べしょです。
最近いろいろあったよ。
①彼女に家を追い出される
②新しい彼女できる
③一人暮らしを始める
うん、すごく楽しい人生だ!
というわけで一人暮らしを始めたわけですが、すごおおく楽しいです。
俺が騒がなければ部屋は静かだし、俺が汚さなければ部屋はキレイ。
俺の着たものしか洗濯しなくていいし、俺の好きな家具を買える
結婚を決めるまではもう同棲なんてしない(反省
結婚したい。
波
大きな波が近付いた
それは最初遠くの方にあってなにかうねりのような水の高まりとして見つけたのだけど、それが波であるとはじめから感じていた。沖から海岸線に向かって周りの魚やら海藻やらを巻き込んで波は進んでいくそれを僕はずっと目で追っていた。
いつかはここまで届くと思っていた。波に気付いてるのはこの海岸で僕だけだ。そこにはなんというか、縁とか勘とか、そういうものをぎゅうぎゅうに詰め込んだエネルギーのようなものに基づいて僕だけに近付いていると思ったからだ。
僕は待った。
けれども、波は今は消えてしまった。あれだけ大きくて勢い良く何かをこっちの方に寄せてきた波はもう消えてしまった。本当に、"消えてしまった"のだ。海にはもはやさっきまでの日差しを反射したきらめきは見当たらないし、ピクリとも動かずにむなしさを抱えて死んだように見える。
それでも僕は待とうと思う。次のうねりやらエネルギーやらきらめきやらを、僕はもう少し待とうと思う。
したいことと、しなきゃいけないこと
結局続かなかった上に全然書いて無くてアレなブログ
就活が急激に佳境を迎えました(急激
分からん。受かるかわからん。でも多分誰もわからん。
僕は人事部の人じゃないし、きっと人事部の人にもわからん。
お世話になっている企業の人にそういうことを(さりげなく)聞いてみても
「まぁ、頑張ってくれ、としか言いようがない」
と。たしかにその通りだ。
そうである。こうなんとなーくぼーっとした日々を過ごしているのだけど、きっと今って人生の中で1、2位を争う”頑張らなきゃいけないとき”なんだと思う。
大学選びで人生は変わらないと思うけど、就職先次第で人生は変わる、でしょ。
もし就職が終わったら(諸事情により終わったら即報告!はできないけど)、したいことはあるよ。
とりあえず穏やかな日々を送らせてくれ。
全然関係ないけど、さっき棟内ですれ違った業者のお姉さんがクッソ可愛くてガン見してたら会釈されたのが今日のハイライトです。
雨
千葉は雨です。
それも、結構強めの。
昨日の天気予報の時点では千葉市も雪が降る予定だったし、今日の未明に起きてバイトに出かけた時もパラパラと天から落ちてくるものを「今日は雪のはずや!」の先入感に基づいて雪と判断していました
が
蓋を開けてみればアメじゃないか。非常にがっかりマン。
雪は好きだよ
雨は嫌いだよ。でも、カラっと乾いた部屋から””あー今日雨だからなんもしたくねぇや”って思うのは好きだよ
最近元気です
凄く元気だし、秋くらいに死ぬほどヘラってたのがウソみたいです。
研究うまくいかないこととか、いろいろあったんだと思います(多分
でもね、こう自分楽な時ってすごくアイデンティティの欠落を感じてしまってしょうがないよね
だからこう、何にも大したこともないのにブログ書いてます
最近お酒もロクに飲んでない。タバコは吸い過ぎてる。
もうちょっと、バランスよく生きよう
新年だからね!年男だからね!
好きなもの
リハビリ的なアレで好きなことを書こう
村上春樹が好きです
今まで読んだのは
<長編>
1Q84
<中編>
<短編集>
蛍・納屋を焼く、その他短編集
回転木馬のデットヒート
こうやって並べてみるとすごみがある
とにかく、村上春樹が好きだ。というより、唯一好きな作家だ。
どの作品もそれぞれ素晴らしいんだけど
村上作品の面白いと感じるところは、”それぞれの人物の心情をここまで文章で表現できる”ということ。そしてその表現が実に的を得ていて、シンプルで、それでいて美しいところなんです
なんかググってみたらフォームを踏めば著作権を得てる作品でも個人引用できるようなので、引用させていただきます
例えば「ノルウェイの森」中で、病気の恋人との別離が決定的となったあとのシーンで(当然簡単にまとめると、ということですが)何も事情を知らな同居人にホタルを貰うシーンがあります。主人公は夜の寮の屋上に上がり、しばらく瓶に入ったホタルを眺めた後、その蓋をあけてホタルを放ちます。その次のシーンを以下抜粋
「蛍が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じたぶ厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでも彷徨いつづけていた。
僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。(ノルウェイの森上)」
ホタルでなにか生の”仄かさ”を表現することは比較的ありきたりなので、言いたいことの概要はすんなり入りますが、実はこの数行の文がこの物語の大筋を示唆しているんです。それはつまりホタル=〇〇、といったように完全に互換されるものではなく、なにか概念というかイメージのグループに替えさせられます。もうこの文だけでちょっと今涙目になってます。
情景としての美しさは勿論、ある主題のためのメタファーをこんなきれいな文章に流暢に混ぜ込んでいるのがすごいと思います
完全に個人的な感想ですが、村上春樹の凄さはそういった一見陳腐な表現の中に美しさだとかリアリティが示唆されてることだと思います。
それはある限られた文章にとどまらず、1単語が1文、また1章、最終的に1冊の本として収束してます
基本的なテーマは(これも僕の主観ですが)青年期における孤独や喪失であったり、暴力性に対するイメージングが多いように感じます。特に前者ではノルウェイの森、羊をめぐる冒険などが前面に、後者は1Q84やねじまき鳥クロニクルなどにみられます。
また全体を通して、”精神的なタフさこそが求められる”といったテーマが先ほどの前者や後者に伴って表現されます。最たる例は「海辺のカフカ」で、これは冒頭で直接書かれています。以下抜粋
「『君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年にならなくちゃいけないんだ。なにがあろうとさ。そうする以外に君がこの世界を生きのびていく道はないんだからね。そしてそのためには、ほんとうにタフであるというのがどういうことなのか、君は自分で理解しなくちゃならない。』(海辺のカフカ上)」
この場合は主人公が他作品に比べて若く、そのために思考法としては少し常道から外れていて、「反発することを受け入れる」といった流れです
一方で、たとえば「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では最後、隔絶された特異な世界を主人公が受け入れるシーンがあります。以下抜粋
「『君には悪いけど、僕は僕なりにずいぶん考えたんだ。一人でここに残ることがどういうことなのかもよくわかってる。君の言うように、我々二人が一緒に古い世界に戻ることが物事の筋だということもよくわかる。それが僕にとっても真実だし、そこから逃げることが間違った選択だということもよくわかってる。しかし僕はここを去るわけにはいかないんだ』(世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド下)」
こちらのような流れの作品が比較的多い気がします。つまり物事やら時代やら境遇やら、それらを受け入れる。それでいてそこに孤独さや喪失感を感じさせる表現のように感じます。このように受け入れることにそういうむなしさを感じさせる表現も非常に美しいです。
もう一つ村上春樹で好きなところ。”女の子がかわいい”です。
いやなんといってもノルウェイの森の小林緑がヤバいです。中学の頃に読んで以来ゾッコンです。
村上春樹作品で一番好きなシーンも小林緑です。以下抜粋
「『どうして?』と緑は怒鳴った。
『あなた頭おかしいんじゃないの?英文法がわかって、数列が理解できて、マルクスが読めて、なんでそんなことわかんないのよ?なんでそんなこと訊くのよ?なんでそんなこと女の子に言わせるのよ?彼よりあなたの方が好きだからに決まってるでしょ。私だってね、もっとハンサムな男の子好きになりたかったわよ。でも仕方ないでしょ、あなたのこと好きになっちゃったんだから』(ノルウェイの森下)」
なんなんだ、可愛過ぎる。緑は完璧すぎる。
・・・といった具合に、各作品中では女の子は主人公に示唆を与えたり、または振り回したり、失踪したりします。
個人的には緑の他では「ねじまき鳥クロニクル」の笠原メイや「ダンス・ダンス・ダンス」のユミヨシさんがツボです。
村上春樹の作品がよみづらい!という所以は色々あると思いますが、その最も大きいものはおそらく”メタファーがだらだらと長く不明瞭”と、”物語中のイベント性が薄くて、中身がない”だと思います。後者に関してはなんていうかもう文学作品読む土俵に立ってないとしか言えないから省略するとして、前者に関してはたしかに他の作家に比べても長い気がします。
僕も最初に読む村上春樹の作品は、理解が足らずに頭の中が???だらけで終わるのが大抵です
それにアンチしてるのかわかりませんが(多分違います)、先ほどもあった「海辺のカフカ」内でこんな会話があります。以下抜粋
「『世界はメタファーだ、田村カフカくん』
と大島さんは僕の耳元で言う。
『でもね、僕にとっても君にとっても、この図書館だけはなんのメタファーでもない。この図書館はどこまで行ってもこの図書館だ。僕と君のあいだで、それだけははっきりしておきたい』(海辺のカフカ下)」
ここからは僕個人の考えですが
文学作品として成り立っている以上、それに文字の形で含まれるのは「ストーリー」と「メタファー」の二つしかなく、それら二つを結んで「連続的なイメージ」がつくられるものだと思ってます。その以上、ダラダラとかかれているようにみられる文章もなにかしらのイメージをつくるためのなにかしらの「メタファー」なのかなぁと、勝手に思ってます。
多感な10代を過ごす中で現実の氾濫したイメージに悩まされるカフカを、大島さんは二人を媒介する場である図書館こそは、彼らの中でなにかに比喩されたりすることを免れられるものということを強調したいのかな?と僕は思ったシーンです。
とはいえどむちゃくちゃにイベントが少ない箇所が多いので、そこでイメージの差異が読者によって変わることはあると思います。けどそれはそれでいいじゃん!って思います。僕の中には僕の中の、誰かの中には誰かの、それぞれ各作品があります。
だからこそ、「ストーリー」で村上作品を決めつけないでほしいのです。
たしかにアニメやラノベよりも「ストーリー」のインパクトは小さいと思います。
けど村上春樹の作品のキモは、先ほど言った「メタファー」にこそあると思うのです。
だからかなり敷居が高いように感じられるのですが、結局は”なんか、内容よくわかんないけど、ここのシーンがキレイだったんだよねー”くらいの感想を持つことだっていいと思うし、というか最終的に何も残らなくても読みながらイメージを持つことそのものが重要なのではと。
何が言いたいのかというと、早く村上春樹が語り合える知り合いがほしい。一人もいないんだ!!
無理に進めるつもりないけど、興味があるようだったら読んでみてください。
「世界の終り~」とか「スプートニクの恋人」らへんが読みやすいかと
わーすごくたくさん書いた!けど語り足らない感しかない。
むっちゃ誤字ってそう
以上です。今度は感想文でも書いてみよう。
大人になったんだよ
片足をドブに突っ込んだような感じで
最近あんまり先の事とか今までのこととか考えないで生きてる。
もちろんね、直近のこととか、ある具体的な予定について考えることはあるよ。
でももともとなんだかぼやーっと過ごしてきたような気がする。
ぼやーっと。
なんか自分語りができなくなったし人の話聞いてるときのほうが楽だわ
”あ、少し自分の話しすぎたな・・・”ってよく反省してたのに
というか、何も考えてないのかもしれない
他人の話は上の空だし
すごく自分をすり減らしながら生きてる感はある
季節柄なのかな?
うーん
今年はぜひ、芸術と食ともに充実した秋にしたいですね
自分としてはなんとなく大人になった気がしてる
気がするだけなのかしらねぇ
ノルウェイの森で女の子に「そんなにやつれて、どうしたの?」って言われて
「大人になったんだよ」
って言うシーン思い出した。
いまそれに気づいたんだけど、そういうもんなのかもしれない
あれはなにしたんだっけな。。。
自分をすり減らすことが強いられるような生活とかメンタルのリズムでしか生きられなくなることを”大人になった”っていうのかもしれないっていま適当に思いついた。
例えばさ、若い時ってやっぱよくわからん自分の中のエネルギーみたいなやつが無限にあるじゃん?
けどこの年になると、そういうの”若さ=資本”みたいなものだって気づくんだよね
自分を運営するための資本。
うん
疲れとかじゃなくて、精神的になんか、こう心細くなる。そういう感じ。
多分ね、僕も「大人になったんだよ」って言いたい。
大丈夫、そのあとその女の子も言ってたし
「そういう考え方って素敵」
小林緑は中学生のころからまったく変わらず、僕の理想の女性像です。
それについてすら語る元気ないことで成長(?)を確認するのってさみしいね