べしょのヒモ日記

プロのメンヘラヒモビジネスを勤め上げる傍ら地震の研究してる

好きなもの

リハビリ的なアレで好きなことを書こう

 

村上春樹が好きです

今まで読んだのは

 

<長編>

ノルウェイの森

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

1Q84

海辺のカフカ

羊をめぐる冒険

ねじまき鳥クロニクル

ダンス・ダンス・ダンス

 

<中編>

スプートニクの恋人

国境の南、太陽の西

風の歌を聴け

1973年のピンボール

アフターダーク

 

<短編集>

パン屋再襲撃

蛍・納屋を焼く、その他短編集

回転木馬のデットヒート

東京奇譚集

レキシントンの幽霊

 

こうやって並べてみるとすごみがある

とにかく、村上春樹が好きだ。というより、唯一好きな作家だ。

どの作品もそれぞれ素晴らしいんだけど

 

村上作品の面白いと感じるところは、”それぞれの人物の心情をここまで文章で表現できる”ということ。そしてその表現が実に的を得ていて、シンプルで、それでいて美しいところなんです

 

なんかググってみたらフォームを踏めば著作権を得てる作品でも個人引用できるようなので、引用させていただきます

 

例えば「ノルウェイの森」中で、病気の恋人との別離が決定的となったあとのシーンで(当然簡単にまとめると、ということですが)何も事情を知らな同居人にホタルを貰うシーンがあります。主人公は夜の寮の屋上に上がり、しばらく瓶に入ったホタルを眺めた後、その蓋をあけてホタルを放ちます。その次のシーンを以下抜粋

 

「蛍が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じたぶ厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでも彷徨いつづけていた。
 僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。(ノルウェイの森上)」

ホタルでなにか生の”仄かさ”を表現することは比較的ありきたりなので、言いたいことの概要はすんなり入りますが、実はこの数行の文がこの物語の大筋を示唆しているんです。それはつまりホタル=〇〇、といったように完全に互換されるものではなく、なにか概念というかイメージのグループに替えさせられます。もうこの文だけでちょっと今涙目になってます。

情景としての美しさは勿論、ある主題のためのメタファーをこんなきれいな文章に流暢に混ぜ込んでいるのがすごいと思います

 

完全に個人的な感想ですが、村上春樹の凄さはそういった一見陳腐な表現の中に美しさだとかリアリティが示唆されてることだと思います。

それはある限られた文章にとどまらず、1単語が1文、また1章、最終的に1冊の本として収束してます

 

基本的なテーマは(これも僕の主観ですが)青年期における孤独や喪失であったり、暴力性に対するイメージングが多いように感じます。特に前者ではノルウェイの森羊をめぐる冒険などが前面に、後者は1Q84やねじまき鳥クロニクルなどにみられます。

また全体を通して、”精神的なタフさこそが求められる”といったテーマが先ほどの前者や後者に伴って表現されます。最たる例は「海辺のカフカ」で、これは冒頭で直接書かれています。以下抜粋

 

「『君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年にならなくちゃいけないんだ。なにがあろうとさ。そうする以外に君がこの世界を生きのびていく道はないんだからね。そしてそのためには、ほんとうにタフであるというのがどういうことなのか、君は自分で理解しなくちゃならない。』(海辺のカフカ上)」

 

この場合は主人公が他作品に比べて若く、そのために思考法としては少し常道から外れていて、「反発することを受け入れる」といった流れです

一方で、たとえば「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では最後、隔絶された特異な世界を主人公が受け入れるシーンがあります。以下抜粋

 

「『君には悪いけど、僕は僕なりにずいぶん考えたんだ。一人でここに残ることがどういうことなのかもよくわかってる。君の言うように、我々二人が一緒に古い世界に戻ることが物事の筋だということもよくわかる。それが僕にとっても真実だし、そこから逃げることが間違った選択だということもよくわかってる。しかし僕はここを去るわけにはいかないんだ』(世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド下)」

 

こちらのような流れの作品が比較的多い気がします。つまり物事やら時代やら境遇やら、それらを受け入れる。それでいてそこに孤独さや喪失感を感じさせる表現のように感じます。このように受け入れることにそういうむなしさを感じさせる表現も非常に美しいです。

 

もう一つ村上春樹で好きなところ。”女の子がかわいい”です。

 

いやなんといってもノルウェイの森の小林緑がヤバいです。中学の頃に読んで以来ゾッコンです。

村上春樹作品で一番好きなシーンも小林緑です。以下抜粋

 

「『どうして?』と緑は怒鳴った。

『あなた頭おかしいんじゃないの?英文法がわかって、数列が理解できて、マルクスが読めて、なんでそんなことわかんないのよ?なんでそんなこと訊くのよ?なんでそんなこと女の子に言わせるのよ?彼よりあなたの方が好きだからに決まってるでしょ。私だってね、もっとハンサムな男の子好きになりたかったわよ。でも仕方ないでしょ、あなたのこと好きになっちゃったんだから』(ノルウェイの森下)」

 

なんなんだ、可愛過ぎる。緑は完璧すぎる。

・・・といった具合に、各作品中では女の子は主人公に示唆を与えたり、または振り回したり、失踪したりします。

個人的には緑の他では「ねじまき鳥クロニクル」の笠原メイや「ダンス・ダンス・ダンス」のユミヨシさんがツボです。

 

 

村上春樹の作品がよみづらい!という所以は色々あると思いますが、その最も大きいものはおそらく”メタファーがだらだらと長く不明瞭”と、”物語中のイベント性が薄くて、中身がない”だと思います。後者に関してはなんていうかもう文学作品読む土俵に立ってないとしか言えないから省略するとして、前者に関してはたしかに他の作家に比べても長い気がします。

 

僕も最初に読む村上春樹の作品は、理解が足らずに頭の中が???だらけで終わるのが大抵です

それにアンチしてるのかわかりませんが(多分違います)、先ほどもあった「海辺のカフカ」内でこんな会話があります。以下抜粋

 

「『世界はメタファーだ、田村カフカくん』

と大島さんは僕の耳元で言う。

『でもね、僕にとっても君にとっても、この図書館だけはなんのメタファーでもない。この図書館はどこまで行ってもこの図書館だ。僕と君のあいだで、それだけははっきりしておきたい』(海辺のカフカ下)」

 

ここからは僕個人の考えですが

文学作品として成り立っている以上、それに文字の形で含まれるのは「ストーリー」と「メタファー」の二つしかなく、それら二つを結んで「連続的なイメージ」がつくられるものだと思ってます。その以上、ダラダラとかかれているようにみられる文章もなにかしらのイメージをつくるためのなにかしらの「メタファー」なのかなぁと、勝手に思ってます。

多感な10代を過ごす中で現実の氾濫したイメージに悩まされるカフカを、大島さんは二人を媒介する場である図書館こそは、彼らの中でなにかに比喩されたりすることを免れられるものということを強調したいのかな?と僕は思ったシーンです。

 

とはいえどむちゃくちゃにイベントが少ない箇所が多いので、そこでイメージの差異が読者によって変わることはあると思います。けどそれはそれでいいじゃん!って思います。僕の中には僕の中の、誰かの中には誰かの、それぞれ各作品があります。

だからこそ、「ストーリー」で村上作品を決めつけないでほしいのです。

たしかにアニメやラノベよりも「ストーリー」のインパクトは小さいと思います。

 

けど村上春樹の作品のキモは、先ほど言った「メタファー」にこそあると思うのです。

 

だからかなり敷居が高いように感じられるのですが、結局は”なんか、内容よくわかんないけど、ここのシーンがキレイだったんだよねー”くらいの感想を持つことだっていいと思うし、というか最終的に何も残らなくても読みながらイメージを持つことそのものが重要なのではと。

 

何が言いたいのかというと、早く村上春樹が語り合える知り合いがほしい。一人もいないんだ!!

無理に進めるつもりないけど、興味があるようだったら読んでみてください。

「世界の終り~」とか「スプートニクの恋人」らへんが読みやすいかと

 

 

 

わーすごくたくさん書いた!けど語り足らない感しかない。

むっちゃ誤字ってそう

以上です。今度は感想文でも書いてみよう。